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2005年は、瞑想、呼吸法のセミナーを行ったり、医院にシロアリが発生し思わぬ工事が必要だったりし、何かと忙しく過ごしていた。そのせいか、ここ10何年は最低でも年に2〜3回は行っていたインドに、一度も行くことなく夏が過ぎようとしていた。そんな折、今までにインドの中でも行くことができなかったカシミールに縁ができ、スーフィー教の聖者に会うべく、10月13日から何名かの希望者を引き連れて出かける準備が全て整っていた。ところが、その約2週間前の9月27日の朝、パソコンを開け、いつものようにメールをチェックすると、相変わらず沢山の迷惑メールのなかに、ツアーを仕切ってくれているU氏のメールがあった。
「カシミール地方のテロリズムなど諸般の事情により今回のツアーを断念せざるを得ません…。このツアーは無期延期といたします。」という内容である。20秒ほど唖然とした後、気を取り直し(この程度のことは以前にもあったので)、U氏に電話を入れる。
「カシミールは仕方がないですが、代わりに何処かへいきませんか?」
「少し待ってくれ。」
その後、ツアーの実質的企画者のF氏にも同じ内容の電話をする。
「カシミール以外に何処かへ行きませんか?」
「昼までお待ち下さい。」
昼ごろF氏より電話。
「フランス、ルルドツアーがインドと同じ日程で組めました。」
「有難うございます。既に休診宣言をしていましたので一人でもどこかへ行こうと思っていました。ただ、フランスになるとは思っていませんでした…。」
と、言うわけでカシミールからフランスのルルドに急遽目的地が変更になった。その数日後10月8日にパキスタン及びインドのカシミール地方をマグニチュード7.6の大地震が襲う。予定のまま出かけていたらどうなっていたか…。まさに神の恩恵である。さらに我々がフランスから帰った直後の10月27日より、フランスで移民系若者たちによる暴動が起こり、それがまたたく間にフランス全土に広がり、夜間外出禁止令まで出された。
とりあえず、例年のインド修行の旅は、本年度はフランス修行?の旅となった。
日程については、今回のカシミール訪問と全く同じに組まなければならなかったため、多少の無理が入るかと思ったが、さすがに秘境ツアーのプロであるF氏、短時間で見事な行程を作ってくれていた。
初日は、成田を10月13日12時5分の便で出発し、約12時間のフライトから7時間の時差を差し引き、フランス時間の17時30分にシャルルドゴール空港に到着した。そのまま国内線に接続し20時50分のモンペリエ行きに搭乗する。この日の約17時間の移動が最もハードだったが、翌日からの行程はこのおかげで大変楽になった。
翌日の午前中はローヌ川に沿った、古く小さな街アルルを訪れる。ローマ時代の円形闘技場や、古代劇場などの遺跡が豊富な土地である。ゴッホが住んでいた町としても有名である。ゴッホの名画にある本物のはね橋の前で記念撮影をした後、町のカフェで昼食をとる。その後、ジプシーの聖地サント・マリー・ド・ラメールに向かった。

ゴッホの跳ね橋
地中海に面した小さな漁村サント・マリー・ド・ラメールは、聖母マリアの姉たちが侍女のサラとともに、追放されたエルサレムから漂着して住み着いたと言われている。そして、地中海に注ぎ込むローヌ川の二つの支流が作りだした湿地帯、カマルグの西端に位置する。
この町の中央にある瀟洒な教会の屋根に登り、辺りを見渡すと、カマルグと地中海に囲まれて、この町はさながら海に浮かぶ島のようである。この日はやや曇りがちの天候であったが、ここから見る地中海の対岸はアフリカ大陸であり、アフリカの匂いが地中海を越えて漂ってくる。ジプシーの大祭が行われる時にはこの小さな町は、何万人かの人であふれかえるそうである。ただ、我々が訪れた時は、既にオフシーズンとなっていたので町は人も少なく、地中海からの風がたいへん強い日で、海岸で釣りをしている老人がたった一人いるだけだった。観光客が殆どいないおかげで、この地が聖地である理由がより深く理解できた気がする。

サントマリー・ド・ラメールから地中海をのぞむ
翌日は黒マリアを象徴とする巡礼地ロカマドールへと向った。ロカマドールはアルズー渓谷を見下ろす岩山の頂にあり、アルズー渓谷を挟んだ対岸からその佇まいを見た図はこの世のものとも思えないほど美しい。岩山にへばりつくように出来た門前町のはずれにバスを置き、小ぶりのフランス車がちょうど通ることが出来る参拝道を歩いていく。道の両脇には色々な店が並んでいる。さすがにお洒落にこだわるフランス、この美しい黒いマリアの聖地ロカマドールの雰囲気に調和し、全体をさらに荘厳なものとしている。

ロカマドール

コンク村入り口
翌日はフランスで最も美しいといわれる村(それぞれが自分の村が1番だといっている)、コンクとサンシルラポピーを見学する。山深いコンクの村は、この時期の初秋で落葉の季節だったこともあり、我々日本人をより一層惹きつける。村人はこの村の景観維持のため、自分たちの車などですら、景観にそぐわないものとして村から外れた人の目に付かない所に置いてくるのだそうである。

コンク村
もちろん無粋な看板や電柱、電線、ゴミやゴミ箱すらどこにも見えない。村の中心には、12世紀の頃、12歳で殉教し、奇跡をもたらした聖少女フォアをまつる聖堂を擁するサントフォア教会がある。サンシルラポピー村の15〜16世紀の町並みはコンクとはまた別の意味で心を和ませてくれる。村の中心部には高台がありこの村周辺の絶景も含めて展望できる。この日は13世紀に運河を利用した交易で栄えた街カオールに泊まる。
翌日は今回の旅行の第一目的地であるルルドに向う。

サンシルラポピー村
ルルドはフランスの西南ピレネー山脈の麓に位置する小さな村であり、スペインとの国境はすぐ傍である。
ルルドの泉の由来を以下に簡単に記す。
「1858年2月11日、ルルドに住む貧しい粉屋の娘ベルナデッタは、近くの河原に薪を拾いに行った。向こう岸へ行こうとした時、突風のような音を聞き、はっと顔を上げ対岸を見ると、マッサピエルの洞窟の中から黄金色の雲が現れ、この世のものとも思われぬ美しく高貴な一人の夫人が、野ばらを踏まえて立っているのを見た。白いドレス、白いヴェール、水色の帯…。白いヴェールからは、金髪が覗き、右手にはロザリオの鎖が垂れ下がっていた。ベルナデッタは不思議な恐れが全身を走り、言い知れぬ喜びを感じ、思わず跪き、ロザリオの祈りを唱えた。ロザリオの祈りが終わるとその美しい婦人の姿は突然消えた。ベルナデッタはこの後、この回を含め18回この美しい婦人と会うことになる。最初、婦人はベルナデッタとともに会話し、ロザリオの祈りを唱えた。ただ、その内容は他の誰も聞くことは出来なかった。婦人の出現は評判となり、多くの人がマッサピエルの洞窟近くに集まるようになっていた。その日、ベルナデッタはいつものようにその場所に来ると、ひざまずいてロザリオの祈りを唱えた。しばらく祈ると、婦人が現れ、ベルナデッタに言った。『泉のところに行って水を飲み、顔を洗いなさい』しかし、そこには泉は無く、ぬかるみがあるだけだった。ベルナデッタはそのぬかるみを掘り、泥水を少し飲み、また、顔を洗った。次に婦人は、その場に生えている草を食べるように行った。ベルナデッタは洞窟の中に入っていって、生えていた草をとって食べた。このしぐさを見た人々は、彼女は気が狂ったと思い、帰って行った。その日の午後、エレノアという女性が洞窟へ行きベルナデッタが掘った穴に棒を差し込んだ。すると、こんこんと水が湧き出てきた。そして泥水は澄んだ水になった。ルイという男は、その水で目を洗った。彼は不治の黒内症で視力が低下していたのだが、翌朝、彼の目は癒された。この後、この泉の水は多くの奇跡や癒しを起こし始めた。ある日、その婦人は、ベルナデッタに『洞窟に聖堂を建てるように司祭に言いなさい』と言われた。
全ての人が、ベルナデッタや婦人のことを良く思っているわけではなかった。ある者は全く信じなかったり、またある者は彼女を利用しようとしたりした。ベルナデッタが婦人に名前を聞いても彼女はただ微笑むだけだった。ある日、司祭はベルナデッタに『彼女は名乗るべきだ。もしその婦人が聖母マリアならば、私は彼女の全ての願いを聞こう。』といった。警察はベルナデッタがインチキな治療をしていると非難し、刑務所に入れると警告した。また多くの人々が、彼女を中傷した。しかし、泉の水は奇跡を呼んでいた。クロイジンという女性の2歳の子は危篤状態だった。既に棺が用意されていた。彼女は洞窟へ息子を連れて行き、泉の水に子どもを浸した。翌日、その子どもは元気に歩き回っていた。医者もこの事実を認めざるを得なかった。3月25日、この日は聖母マリアの受胎告知の祝日だった。朝早く、洞窟にきて見ると婦人はすでにそこに立っていた。ベルナデッタは婦人にその名を尋ねた。彼女は答えずに微笑むだけだったが、ベルナデッタの4回目の問いに天を見上げていった。

ルルド教会
『Que Soy era Immaculada Conceptiou.(ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・カウンセプシウ)』そして婦人は消えた。ベルナデッタはこの言葉もその意味も知らなかった。司祭ならばその言葉の意味が解るだろうと思い聖堂に向かった。ベルナデッタは司祭に言った『Que Soy era Immaculada Conceptiou.(ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・カウンセプシウ)』
司祭はそれを聞いて、呆然と立ち尽くした。それは「私は無原罪の宿りです。」という意味のラテン語であり、アダムとイブが作った原罪を免れて処女懐胎でイエスを身ごもった聖母マリアを表す言葉だった。無原罪の宿りは1854年にローマ法王ピウス9世によって信仰箇条として決定され宣言されていた教義である。4年前にヴァチカンの法王庁でそれが定められたことを、ピレネーの寒村に住む文盲の少女が知るはずも無かった。この日からルルドのペイラマール司祭はベルナデッタの庇護者となった。
聖母の出現後ベルナデッタには苦難が始まった。騒動の首謀者と考える警察や検事、新興宗教化と、いぶかるカトリック関係者たち、精神の病を疑う医師、あるいは彼女を利用しようと近づく人々に14歳の少女は翻弄された。ベルナデッタは修道女になりたいと願っていたが彼女の無学と家庭の貧困、そして有名人となってしまった少女が修道院に来ることは修道会から嫌われ、その願いはなかなか叶わなかった。彼女はルルド施療院の助手として、病人の介護に当たる日々をすごしていた。1866年、ベルナデッタが22歳の時、ようやくヌベールの愛徳修道会の修道女になることができた。修道院での生活もベルナデッタにとって安らかなものではなかった。修道院では聖母の出現についての体験を話すことを一切禁じられた。ベルナデッタは決して歓迎される存在ではなかった。ベルナデッタの症状は次第に悪化し、病室に伏している時の方が多かった。1876年7月16日ベルナデッタは神に召され35年の生涯を終えた。
1909年の秋、ベルナデッタの聖性、諸徳、奇跡についての調査のため遺体の鑑定が行われた。驚くことに、棺の中からは完全な状態で保存されているベルナデッタの遺体が現れた。修道女たちはその遺体を洗い、新しい棺に遺体を収めた。遺体は数時間外気にさらされていたために少し黒く変色した。
1913年教皇ピオ10世はベルナデッタの列福調査に入ることを許可し、再度墓を開けることとなった。第1次世界大戦の勃発のためそれは1919年まで延期されたが、第1回目の発掘の際に水で洗ったためと思われるカビ発生が認められた以外、遺体は殆んどそのままであった。
1923年ベルナデッタの列福の宣言のために、3回目で最後の遺体の鑑定がされた。遺体は未だに腐敗せずにそのままの状態で残っていた。鑑定に当たった医師は「通常の自然現象ではない。」と結論づけた。1925年8月3日、ベルナデッタの遺体はヌベールの聖ギルダード教会に安置され、一般に公開されることになった。
そして、1933年ローマ法王ピオ11世によってルルドの少女ベルナデッタは聖人に列せられた。聖ベルナデッタは、ある意味で今日も生き続けている。彼女のメッセージは、今もなお、最初の日と同じ鮮明さと純粋さをもって、わたしたちに語りかける。ベルナデッタへの一連のマリア出現は、1862年に教会当局によって神聖なものとして承認され、ルルドはカトリック有数の巡礼地となり毎年多くの巡礼者たちが訪れている。そしてまたベルナデッタの美しい姿を見るためにヌベールの教会を訪れている。」
現在ルルドの泉は、オリジナルの場所は厳格に保存され当時の状態を保ち、祈りの中心の場となっている。そしてその水は延長されルルド教会の敷地内の何箇所かで自由に必要なだけ汲むことが出来る。もちろん無料である。
話は戻るが、我々がルルドの町に到着したのは2時か3時ぐらいだった。その頃から私には珍しく体調不良で熱が出てきた。やむなくホテルに戻り寝ていたのだが、その後熱はますます上がり、39度を超え、夕方には起き上がることもままならなくなっっていた。夜の9時からはルルド教会の敷地内でキャンドルを携えてのミサが行われる。これはどうしても体験しておかなければならないイベントである。もう1日あるとはいえ明日のことはわからない。とりあえず行ってみようと、ベッドから起きたもの、頭も地球も回っているようだ。
エレベーターに乗り、やっとのことでフロントに下りる。足元もおぼつかないが、とりあえず行くだけでも行ってみようと、ミサの行われる教会前の広場に向って歩き始める。不思議なことに、教会に近づくにつれ重い気分がいくらか楽になってきた。そして教会の敷地内に入るとさらに気分は楽になった。ただ熱は相変わらずで身体は動かない。ピークのシーズンに比べて、何十分の一かの人数との事だが、それでも参列者が3000人以上はいるだろうか。
聖母マリアの像を先頭に、各国の参拝者ごとのグループに分かれて教会前の広場を練り歩く。参列者は広場を一回りした後、教会の入り口に戻ってくる。各国代表の挨拶やら司祭の説法などの後、賛美歌が始まる。とても気持ちがよいエネルギーの場が出来上がる。ヒンドゥーや日本神道は、全てのものの中に神を認め、自らもまたその神の一部であるとする。
一方、キリスト教は神と子と精霊を分け、人はイエスに祈り、その慈悲の下に自己の罪を救われようとする。それゆえ、このような大きな場での信仰心の統一性や、全託の祈りは非常に大きな力となって現れる。色々な宗教の祈りの場に立ち合わせていただいたが、集団の祈りのパワーとしてはこのカトリックの場が過去最高である。
約1時間のミサが終わった後、私の気分は清々しく、熱は完全に平熱に戻っていた。食事も取れなかった状態であったのだが、帰りがけには途中で見つけたフランス風中華料理屋で仲間と食事をして戻った。ちなみに、作っているのはベトナム人だった(一体何の店なのだろう)。

ルルド泉の前
翌日は、ルルドの泉の水で沐浴が出来るというので体験する事にする。昨晩のミサのおかげですっかり体調がよくなっているのだが、果たしてルルドの泉の水の効果はどうだろう。沐浴の場はもちろんオリジナルの泉とは別に、沐浴場が男女別に作ってある。カトリック教徒のボランティアが、全世界からここへやってくる人達の世話をしてくれている。
ピーク時には2〜3時間待ちはざらという話だが、この時期(10月中旬)には既にピレネー山脈からの冷たい風が吹き降ろしてくるので朝から沐浴の順番待ちをしている人は少ない。20分ほどで中に入ることが出来た。ボランティアのおじさんに言われるまま、ためらいつつ、すっぽんぽんになり(水に入るまでは、バスタオルで一応隠してはくれたが)、部屋の中央にある沐浴用のバス(バスタブより一回り大きいサイズのものが大理石で作ってある)に浸かる。
跪き祈りなさい。マリア様に感謝しなさい。首まで泉につかりなさい。聖水を飲みなさい…、などと多分言っていたのだろう。フランス語と思われる説明と、もう一人はフランス人ですらなさそうなボランティアの手助けのおかげで、無事ルルドの聖水による沐浴は終わった。ピレネー山脈からの伏流水であるルルドの水はそれだけでも素晴らしい。そしてマリア様やベルナデッタに対する信仰心のあるものには、さらに色々な効果を与えるだろう。さらに、ルルドの水の奇跡に関しては、奇跡というものを冷静にしかも厳密に調査する認定委員会というものがあり、認定委員会は現代医学や科学と、実際に起こった現象を厳密に照らし合わせ、その現象をどうしても奇跡と呼ぶしかない場合のみ、そのことを奇跡と認定するそうである。
翌日はパリオルリー空港に向けて、ルルド空港から約1時間半のフライトである。この時も、明け方まで降ったりやんだりであった天候は、フライトの直前には快晴となった。まったく運が強いというしかない。パリでは帰国のエールフランスの便が翌日の夜11時35分なので1日以上の自由時間がある。
パリでもある教会を訪れることができた。「聖ヴィンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会」というパリでは「不思議のメダイの聖堂」として知られている教会である。

不思議のメダイの聖堂
以下は同協会のパンフレットを要約したものである。
『1830年7月30日から19日にかけての夜、この教会の修練女カタリナ・ラブレは、夜半の11時半3度続けて自分の名を呼ぶ声に目をさましました。声のする方を見ると、一人の幼い子どもが立っていました。白い衣をまとい、金髪で全身から光を発し、周囲を照らしているではありませんか。子どもは「いらっしゃい、聖堂にいらっしゃい。聖母マリアが待っていらっしゃいます。」と云いました。
カタリナは他の姉妹たちが目を覚まさないかと内心考えましたが、子どもはそれに答える様に「恐れることはありません。今は皆、眠っています。さあ、いっしょにまいりましょう。」と云いました。カタリナは急いで用意し、子どものあとについて行きました。驚いたことにいたるところに灯が輝いていました。
さらに驚いたことには、聖堂の扉は子どもが軽く指で触れるだけで開きました。聖堂内も明るく、カタリナの言葉をかりて云えば、夜半のミサを思わせるほどでした。カタリナは祭壇近くまで進み、ひざまづいて祈りました。しばらくすると子どもは告げました。「聖母がおいでになりました。あそこに。」と。その時、祭壇の右手の方に衣づれのような軽い音がはっきりと聞こえ、非常に美しい婦人が祭壇の前においでになり、椅子に腰かけられました。カタリナはその方の足もとに進み、膝の上に両手を合わせてのせました。
「一生涯でこれほど甘美な気持ちを味わったことはありません。どのくらいおそばにいたかはわかりませんが、ただ知っていることは、ずいぶん長い間お話をなさってから影のように見えなくなったことです。子どもはもとのところにいて『聖母はもうお帰りになりました』と云い、また案内されて寝室に戻りました。この子どもは自分の守護の天使であったに違いありません。ベッドに戻ると時計が午前2時を打つのを聞きました。それから私は少しも眠ることができませんでした」とカタリナは云っています。
その夜、聖母はいくつかの事についてお告げになりましたが、特に聖櫃の方を指さして「この祭壇のもとにいらっしゃい。ここで多くの恵みが与えられます。」とおっしゃいました。いつの時代にも大切な聖体に深い信仰をもって祈る人々に多くの恵みが与えられています。
11月27日の夕方の黙想の間に、カタリナは再び聖母のご出現を受けました。同じ聖堂で地球の上に立った姿の聖母は、それより小さい地球を胸の高さに両手で持って祈りつつ、それを主にお捧げになっているように見えました。やがて聖母が両手をひろげて降ろされると、その御手から輝く光線が放たれ、聖母はカタリナに「これは私に願う人々にそそがれる恵みのしるしです。」とおっしゃいました。これは有力な恵みの取り次ぎ者であるマリアのお姿です。そして聖母の周囲に楕円形のしるしが示され「無原罪の聖マリア、あなたにより頼むわたしたちのために祈ってください。」という祈りがまわりに見えました。それはメダイの表に見られるお姿でした。聖母は「このモデルにしたがって、一つのメダイを作らせなさい。信頼をもってそれを身につける人は大きな恵みを受けるでしょう。」とおっしゃいました。』
カタリナ・ ラブレは1876年12月31日に天に召され、その遺骸は彼女の愛したリュイの聖堂の地下に埋葬され、56年後、教会の調査のために発掘された。その時彼女の遺骸は全く変化しておらず今もパリのこの愛徳姉妹会総本部の聖堂に安置されている。そして聖母マリアの指示により製作されたメダイ(メダル)はこの教会へ行けば誰でも分けてもらえる。

不思議のメダイ
ここ10何年か修行の名目のもと、インドばかりを50回以上も訪れていた、フランスに行ったのは約30年ぶり2回目である、東洋と西洋、もしくはインドとフランスの違いなのか、今までとはまるで異質の文化を感じた。ヒンドゥー文化の何物をも包含し、融合しようとする雄大さに比較し、キリスト教文化の、神への全托を基にした、信頼と調和の文化もまた学ぶ点が多く、たいへん勉強になる旅だった。
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