2004年9月 ネパール(カトマンズ、チャリコット)脱出劇

 本年(2004年)7月末、チベット、ヒマラヤに修行に行ったばかりにもかかわらず、9月25日よりネパール、チャリコットに行くこととなった。この話は前回の旅程中にチベットで決まったのである。さすがに、あまり日程が取れないため1週間の強行軍である。


チェキニマ リンポチェ

 今回の目的はカリンチョクババというヒマラヤ聖者にお会いしてホーマのプジャを受けることである。カリンチョクババはヒマラヤ山中で20年以上にわたり一人で修行をされ、現在ではヒマラヤ山脈の麓にある、標高約2000メートルのチャリコットという村に住んでおられる。

 前回と同様タイ経由でネパール、カトマンズ空港に到着する。
前回は1日のステイで、すぐチベットに飛んだためビザは無料だったのだが、今回は30USドルだった。なんとなく損をしたような気持ちになる。おりしもネパールは28日、29日はゼネストとなり車が動かない、・・と、いうより動けない。このことが後で大変なこととなってくるのである。


 カトマンズを朝8時に出発する。中型バス2台に分乗し、道のりにして約120km離れたチャリコット村へと向う。この120kmの道は通常、車で約5時間半かかるということだった。
 ネパールでは、山また山の中のうねりくねった街道を、とろとろと登ったり、下ったりしながら走っていくので、このぐらいの時間がかかってしまうのである。最初はネパールの田舎の景観を楽しめる順調なドライブだった。街道の要所、要所での、軍隊の検問などがあり、1時間ほどしてとある峠にさしかかると、車が渋滞していた。古い車が故障でもしているのだろう、と思っていたのだが、いくら待っても動き出す気配がない。
そのうち、渋滞の原因は、「テロリストが道路に爆弾を仕掛けた」という看板が立っている、という理由だということがわかった。日本なら一笑に付して終わりなのだが、この国では全く現実の世界なのであり洒落にもならないのである。前国王の時代は今ほどではなかったのだが、現在の国王の体制に代わってから、この種の治安が悪化しているようである。ここで待っていてもどうにもならないので、来る途中にあった町まで引き返し、成り行きを見守ることとなった。

 その町のドライブインで、とりあえず昼食をとりながらいつものようにチャイを飲む。五十回を越える修行の旅はいつもトラブルの連続である。そういう時はとりあえずチャイを飲むことにしている。そして、たいてい何とかなるのである。


ツーショット


 遥かかなたには、ヒマラヤ連邦が見え、木々は緑、やや曇り空ではあるが、太陽は暑くたくましい、ここでも海抜は1500メートルぐらいあり、とても心地よいひと時である。しかし、我々は今日中にチャリコットに到着しなければならない。明日は早朝から、ヒマラヤ聖者である。カリンチョクババに拝謁の約束がしてあるのである。そうこうしているうちにネパールの軍隊が出動し道路の爆弾の有無の確認作業が終わった、という連絡が入る。やはり何とかなるものだと、大急ぎで出発となる。この時点で予定より約5時間の遅れである。

 その後順調にバスは走った、ただ、チャリコットへ向うネパールの典型的な田舎道は、海抜300メートルぐらいから、上はヒマラヤ山脈までである。
今回も出だしのカトマンズは1300メートル、途中の峠は高いところで2600メートルある(気圧、高度、表示機能つきのサバイバルウオッチのおかげで解るのです)。その道をとろとろ、うねうねと我々の乗ったバスは走る。街道沿いに流れていた川が近くなったり遠くなったりしていたがそのうち本格的な山越えに入り、川の変わりにネパール特有の段々畑しか見えなくなってきた。   
 曲がりくねった山道、がけ、遠くの山々、木々、段々畑、曇り空、以外何も見えない状態が続く。時々山中の小さな村を通ると子供たちがバスに手を振ってくる。日が暮れ、あたりが薄暗くなってきた、向かい側の山を覆っていた雲が押し寄せてくる。小雨がぱらついてくる。雲がバスとあたり一帯に覆いかぶさってくる。

 バスが今回の最も標高の高い2550メートルの峠にさしかかる頃はもう当たりは真っ暗になっていた。日本と違い道路の端にガードレールが在るわけではなく、道の端はがけのままであり、路面はごつごつした岩盤地帯でとても揺れる上に、滑りやすくなっている。マオイストなどのゲリラたちは、以前こういう山間部でよく出たようであるが、現在は山間部に限らずどこでも、ゲリラ活動をしているそうである。

 


チャリコット村地図

 ちなみにこのあたりは夜間に車を走らせるのは禁止で、走るためには軍の特別な許可がいるそうである。我々はもちろんそのような許可をとる時間などなかったわけである。すなわち雨が降り、暗くなった峠を走っているバスなどはゲリラにとってはこれ以上ない獲物だったのだが、この時我々のほとんど全員はそのことを知らずに、ただ、霧や路面の危険だけを憂えていた。

 と、そのとき、前方に人影とライトの明かりが見えた。バスが近づくと丸太でゲートが作ってあり、銃を持った人間が2−3人いる。ガイドが引きつった顔でドアを開き、でていく。ガイドは、雨の中しばらく彼らと話をした後、戻ってきた。実は、チャリコット村はもうすぐそこで、彼らは対ゲリラのために配置されている軍人だったのである。本来ならもう既に車が走れる時間ではないため、峠を越えてきた怪しいバスを、彼らも大変警戒をしていた様子である。ガイドが、途中携帯電話で、村の要人に我々の乗ったバスが遅れて到着する旨伝えてあったことがわかり、ゲートを開き通行させてもらうことが出来た。しかも、この村にはもう1箇所同じような警戒厳重なゲートが設けてあった。まさに、臨戦態勢である。

 チャリコット村に何とか到着できたにもかかわらず、今度は我々が確保してあったコテージがどこにあるのかわからない。小雨が降り、霧煙る中、数十分ほどの後、コテージの位置がわかり、案内人を先頭に、この日の宿へ向う。麓とはいえここはヒマラヤトレッキングの基地、コテージは細い小道を登りつめた丘の上にあり、たとえ昼間でもそう簡単には見つけられそうにはなく、我々には十分な運動になった。

 12時間の過酷なバスツアーで疲労困憊の我々が、とても美味なベジタリアン仕立ての夕食にありついたのは9時少し前だった。ちなみに、この日の食事はカリンチョクババが指示された材料と調理法で作られたものである。翌日のプジャはもう始まっているのである。同行した1部のスモーカーたちにはこの時から厳重に禁煙が申し渡された。


チャリコット村

 

 翌日は早朝より起床しヒマラヤ山脈から降りてくる水のシャワーを浴びる。日課の朝の行と瞑想を行い、カリンチョクババのプジャに備える。前回のチベットのときもそうだったが、ヒマラヤの場はとても良い、しかも私には良く合う。労せずして瞑想のレベルが1から2段階は上がるようである。朝食は食べずにババのお住まいに向う。

 昨日の夜は小雨の中真っ暗な道を歩いたのでわからなかったが、このコテージは小高い丘の(もともと標高が2000メートルあるのだが)上にあり、周囲のヒマラヤの山々や緑が一望できる。その丘から人が一人、又は牛1頭がやっと通れるような小径を上り下りし、さらに、チャリコット村の細いメインストリートを通り抜け抜ける。その反対側にある丘へ上っていく。たった2〜3キロの道のりにもかかわらず普段から運動不足の私にとっては、うっすらと汗をかくのに十分な運動である。


カリンチョクババ


 ババのところで朝御飯をご馳走になる。と、いってもお湯に砂糖を溶かした様なものをカップに一人1杯ずつである。何か自然の蔗糖を溶かしたようなものだと思うが、その素性は不明である。ババは普段から食事はこの甘い液体とヨーグルト以外は何も召し上がらないそうである。

 体と魂にとても良さそうな朝食をご馳走になった後は、いよいよ今回の目的であるホーマ(護摩)のプジャである。ヒンドゥー教のタントリックで行われるファイアープージャは何度も経験があったが、このカリンチョクババの護摩壇ほど立派で大きなものはかってお目にかかったことはない。
 護摩壇の一辺は5メートルぐらいあるだろうか、その周りは1,5メートルぐらいの幅の通路があり、さらにこれら全てを包み込むように1軒の建物となっている。この建物の向かい側には、多分村人が寄進したのであろうババのお住まいがあるが、むしろババのお住まいの方が小さいかもしれない。

 むせ返るような煙の中、多くのプラサーダム(神にささげる供え物)を用意する。花、ハーブ、米、果物,線香、顔料など・・・。それをガネーシャ神やハヌマン神に捧げる。カリンチョクババの指示にあわせマントラを唱える。プラサーダムをホーマに投入する。ホーマが大きく燃える。また別のマントラを唱える。ホーマは燃え煙が立ち上る。再びプラサーダムをホーマに投げ込み自分の魂からの願いを込める。


修行時のババ

 ・・・・この場を正確に表現することは不可能である。この場に、目に見えている事と目に見えていない事が同時に起こり、この場にいる者と、この場を変容させ、ここにいる者の望んでいる波動(望み)が、近い未来に確実に起きるような波動をババは設定して下さるのである。

 プジャの後は天地四方の神々にも感謝を現し、村人が我々のために作ってくれた食事をいただき、ババに感謝をして再び山道を歩きコテージに戻った。あたりは既に薄暗くなりつつあった。この頃から少しずつヒマラヤの山々から大粒の雨が降ってきた。まさに浄化の雨だろうか。
 この日は夕方から本降りとなり、夜半は雷がなるような大雨となった。雷はシバ神の象徴の一つとされている。そして、ババの所で祈ったガネーシャ神はシバ神の長兄である。

 翌朝、朝7時ごろにはまだ雨が残っていたが次第にヒマラヤの峰々もはっきりと現れ青空が見えてきた。天候は回復したのだがこの日もまたゼネストで、車での移動にはテロからの襲撃などが考えられ、かなりの危険を伴う。かといって明日の朝、未明にここを出発しカトマンズに向ったとしても、飛行機に間に合わない可能性がある。色々と相談した結果、救出用のヘリコプターをチャーターすることとなった。
 メンバーは23名いる、普通の小型ヘリコプターだと4機が必要となり費用もさることながら時間も段取りも大変である、カトマンズの空港と、ネパール人のラジュが交渉の末、たまたま24人乗りの旧ソビエト連邦製の軍用ヘリがあいていることがわかり、これをチャーターできることとなった。
 ただ、この日はこの地方での久しぶりの好天であり、既に我々以外にも救出を待っているトレッカーたちがいるようで、その合間を縫って、そして雲海が晴れたときに、我々をカトマンズから迎えに来るということである。ということで、何時ヘリが来るとはいえないが、常に待機しておくように、という話となった。カトマンズを我々の救出ヘリが飛び立つとき電話を入れるということで話は決まった。


宿泊コテージ


 朝の7時からコテージで食事を取り、ただひたすら天候の回復とカトマンズからの救出の電話を待つ。9時ごろには雨が上がり太陽がさしてきた、まだあちこちに厚い雲間がある。10時、11時ごろにはそれもなくなった。みんなそろそろ待ちくたびれてくる。電話はまだか?・・・12時を過ぎ、ビスケットとジュース、チャイなどで簡単なランチを取る。1時になってもまだ電話はない。太陽は真上にあり真っ青な空が広がっている。

 1時30分、コテージの電話がなった、ラジュが出る、今ヘリがカトマンズを発った。思わず、みんなから拍手と歓声があがる。ヘリコプターが降りることができるほどの空き地は昨日行ったババのアシュラムの傍の空き地しかない。ヘリはそこに降りる予定である、我々の足では急いでも30分ぐらいはかかる。急げー・・ヘリはあまり長くは待てない、ヘリとてゲリラに狙われないとも限らないし、今日は大忙しなのだ。

 カトマンズから、ここチャリコットまでのヘリの所要時間はなんと、20分ということである。我々が大汗をかいて山道を歩き、到着予定のババの丘がみえてきた頃、頭上にヘリの爆音が響き渡り丘の方向に軍用ヘリの雄姿が降りていくのが見えた。朝から丘でヘリを待機していたU氏とI氏が急げー、と叫んでいるのが聞こえる。



脱出前


 村人が数十人、周りを取り囲んでいる。我々がヘリの所へ到着する頃には当たりは黒山の人だかりである。村長は旅の無事を祈り、我々一人ひとりに祝福の朱をつけ花を渡してくれる。(本当はそれどころではないのに)村人はお祭りでもあるかのように楽しげに、片っ端から握手を求めてくる。子供たちも嬉しそうに手を振ってくる。まあいいかー・・・。彼らを振り切るようにヘリに乗り込むと、座席は丁度満席になった。昨日まで戦場にいたかと思えるようなロシア人らしいはげ頭のパイロットが何か注意をしたようだが、ローターの音がうるさく誰もそれが理解できない。・・・と思っている間にヘリは離陸した。

 村人が手を振っていてくれるのが良く見える。ヘリはそのままチャリコット村を跳び越し山の斜面や木々すれすれに飛んでいく。(後で気づいたのだが、エンジン音が時々止まりそうにあえいでいたので、其処までしか上がれなかったのかもしれない。実際かなり酷使されているヘリであった。)エンジン音がうるさいので、隣の座席の者との会話は出来ないが、昨日、苦労してバスで上がってきた峠など、文字通りひとっとびである。眼下の絶景に見とれ、ヘリの揺れにも慣れてきた頃カトマンズ空港に到着した。腕時計の測定により所要時間は本当に20分であった。

 カトマンズ国際空港からホテルまでも、ゼネストのため本来は車は走れないのだが、特別に証明書を付けた車のみが、走ることができるということで歩かずにすんだ。ただ、このカトマンズ国際空港と、旅行者の止まるホテルの間だけ、ということである。ホテルまでの道中、車のいないネパールの首都が、すばらしく快適であるということがはじめてわかった。ただ、ゼネストのテロの脅しにも屈せず、自分の車のナンバープレートを外しもぐりの営業をしているタクシーが少しだけいた。ナンバープレートを付けていると、ゲリラがナンバーをチエックし、後で報復処置があるそうである。

 そういう話をラジュとしていたところ、ホテルの傍で、そのナンバーを外したタクシーに、ゲリラが客を装って乗り込み、爆弾を仕掛桁爆弾事件が本当に起こった。ヘリコプターの脱出は正しい選択だったようである。

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