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中尼公路
2004年7月、以前から話だけは何度も出ていたチベット高原への旅が実現した。ただ、今回は最終目的地のカイラス山ではなく、その下見とも言える中尼公路を通ってのヒマラヤ山脈越えである。中尼公路とはラサからネパールに向かいヒマラヤ山脈を横断するルートである。
ネパールへ
7月7日通常通り午後6時30分までの診療を終え、大急ぎで支度をし、19時50分の新幹線に乗り京都へ。翌朝の集合が早く、関西空港に朝直接向かうと間に合わないためである。翌7月8日、7時16分の特急はるかに乗り関西空港へと向かう。
関西空港到着後、空港でスーツケースを受け取り、9時15分の集合にちょうどぴったり間に合う。慌しくチェックインの後、タイ航空T−G 623便に乗り、5時間と少しでタイ・バンコック空港に到着。タイと日本の時差は2時間ある。この日はバンコックに1泊し、明日からの本戦のため鋭気を養う。
翌7月9日、タイ航空TG319に搭乗、ネパールに向かう、ネパールまでは3時間少々で到着する。ただし日本との時差が3時間15分ある為、到着時間は現地時間の12時29分だった。ビザ申請と入国手続きを空港で終えた後、空港から車で20分程度のところにあるホテルアルプスに宿を取る。
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ネパールブッダナート寺院 |
デシュン リンポチェ
部屋にスーツケースを上げるのももどかしく集合がかかる。U氏の旧知のチェキニマ リンポチェ師は現在ヨーロッパへ出張中とのことで代わりに・・・といっては何だが、ソランゴンパ(THORLAN
GONPA)のデシュン リンポチェに拝謁するアポイントが取れたということである。ただ、忙しい方であまり時間がないので、これからすぐにソランゴンパへ向かうこととなった。
デシュン リンポチェはこのソランゴンパのさる高僧の生まれ変わりとのことである、まだ15歳ぐらいではあるが、彼の指導僧を従えながら我々の明日からの旅の安全祈願をしてくださった。表面的には優しい顔をした少年僧にしか見えないが、さすがにプジャをする時には中身の違いがうかがえる祝福だった。
異常気象
翌、7月10日ホテル起床は6時、8時ごろにはカトマンドゥの空港に到着することが出来た。しかしここネパール地方はこの時、何年来の豪雨だった。我々の待っているカトマンズ空港に、チべットのラサから来るはずのエアーチャイナCA408は、待てども待てども現れない。10時50分発の予定が12時になっても何の放送もない。うわさによればCA408は、カトマンズの上空までは来たが、着陸不能でラサに引き返したとのことである。そういえば国際空港でありながら、朝から飛行機の姿は1機たりとも見えない。今日はもうダメかとあきらめかけていると、この頃(12時ごろ)から厚い雨雲が晴れ始めた。それでも館内の放送も何もなく、1時間ぐらいたったころ空港に次々と飛行機が降りてきた。待合室から思わず拍手が起きる。しかしわれわれの待っていたエアーチャイナが到着したのは、それからさらに1時間後だった………。何とか搭乗ができることとなり、やっと乗れる!と、ほっとしたそのとき、再度スコールのような大雨が降ってきた。それからさらに1時間経過後、飛行機はようやくカトマンドゥを離陸できた。フライトが順調であれば、ラサまでは1時間と少しで到着できる。…………そのはずだったのだが2時間ぐらい飛んでいるのに少しも着陸する気配がない。乗客がざわめき始めた頃、機内放送でラサ地方が大雨で着陸できないこと、が告げられた。この機はこのまま中国中央部にある成都へ向かうという………。成都で我々の意図に関係なく降ろされ、エアーチャイナ御用達のホテルの部屋に入ったのは11時を超えていた。
やっと出発
翌日は4時起床、目と鼻の先にある成都空港へバスで送迎される。慌しく搭乗チェックインの後、搭乗待合室へ向かう。昨日は気づかなかったが、ここはまだ建物が完成されて間もないようで、大変立派な国際空港で、関西国際空港クラスである。搭乗待合室にたどりつき、空いた椅子に座り、寝不足の体をしばし休める。しかし、搭乗時間を過ぎても何の動きもない。しばらくして“ラサ空港は豪雨のため、現在飛行機の発着が不能になっています、天候が回復したらまたアナウンスをします”という意味のアナウンスがある。結局朝早くから空港に入ったにもかかわらず、4時間以上待たされた後、成都を出発となった。
ラサも大変
搭乗後は取り立てて問題はなく、順調にチベット自治区ゴンカル空港に到着した。昨日の二の舞で、また大雨で着陸不可能になりはしないかと、思っていたが幸い雨は上がっていた。
ホッとして、預けた荷物が出てくるのを待っていたのだが、何時までたっても出てこない。そのうち、さほど広くない待合室が満員になるほど、荷物待ちの人が増えてくる。荷物を捜しにベルトコンベアのところに行こうとするのだが、人が一杯で其処までも行けない。人づてに聞くと、なんと、そのベルトコンベアが壊れて動かないので、荷物が、荷物を何とか受け取ることができ、迎えのバスでラサ市内のホテルへ向かう。ここゴンカル空港からラサへ向かう唯一の道路は、きれいに舗装されていて大変快適である。距離は96kmある。この道と平行して流れているブラムハプットラ川(チベット名ヤルムツァンポ)は、インドまで流れてガンジス川となるという。この川は、豪雨のため文字通りの大河となっている。広いところでは川幅1キロ以上はあるだろう、とてもここが3500メートルの高地だとは思えない。
高地順応
ここラサでも海抜高度は3500メートルある。高地順応と各種の調査目的のため、3泊4日を予定していたのだが、既に1日は豪雨のために消費してしまった。ラサ市内に到着後、しばしの休憩の後、ジョカン寺(大昭寺)を見学する。ラサの旧市街地区の中心部にある7世紀中期に創建された吐蕃時代の寺院である。正門前は常に礼拝者が絶えず、五体投地をしている者が目立つ。私もしようと思ったのだが、場所がなかったのでやめた。1時間ぐらいの参拝の後、周囲のバザールを冷やかしてホテルに戻る。この日の夜、インド渡航歴百数十回の猛者であるF氏が高山病のため倒れた。かなり危険な状態ではあったが、事前に用意した、ダイアモックス錠、五苓散、柴苓湯、ホメオパシー薬、酸素吸入、焼き漢方、などのおかげで、たった一晩で回復した。さすがにただ者ではない。ちなみにラサを訪れる観光客が高山病で亡くなる人数は公表されてはいないが、年間数十人以上はいるようである。
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ジョカン寺門前の灯明 |
ポタラ宮
翌日はポタラ宮の拝観である。予約時間が11時頃だったので、それまでの時間潰しのため、ラサの町のすぐ郊外にあるネチュン寺を拝観する。観光雑誌などには、決して名前が載ることは無いような目立たない寺であったが、とても場の良い山のふもとにある清楚な寺であった。ちょうど朝の勤行の後だったようで、境内には炊き上げたサンバの煙が漂い、この山(この山でも四千m以上はある)の精霊や神々、釈迦牟尼仏の祝福が感じられる境内だった。観光寺ではないので案内人はいなかったのだが、親切なラマ僧が本殿の中にあるタンカや壁画の説明をしてくれた。
ポタラ宮は言うまでもないが、1994年にユネスコの世界遺産に登録された聖なる都市ラサの象徴である。ポタラという名はポタラカというサンスクリット語に由来する。ポタラカは観音菩薩が住むと伝えられる山の名である。そして歴代ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされている、念のため。
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ポタラ宮中腹 |
日本で見る写真などからは、想像もつかないほど巨大なポタラ宮は、41平方キロメートルあるということだが、部屋の総数は1000を超え、中にある仏像群は2万を超えるといわれている。ポタラ宮の中では中国側の監視員が其処ここに監視の目を光らせているし、もちろん内部の写真撮影は厳禁である。中に入れるのは、事前にチケットを購入した者だけであり、さらに時間が指定されている。そのチケットも最近では個人で購入することはかなり難しく、何らかの地元の旅行会社のツアーに入らなければ困難になっているようである。ポタラ宮の中で解放されている見学のコースは、全体のほんの1部分であり、見学の途中は常に中国当局の監視員に厳重に監視されていて、あまり良い感じはしない。それでも、物質的にも霊的にもまさに宝の山である。例えば、ダライ・ラマ5世霊塔は高さ約17メートルで5トンの黄金を使用し、瑪瑙やダイヤなど1500個もの宝石がちりばめられている。このクラスの遺産が我々が見ることができただけでも何十にもなる。このポタラ宮の深部に存在している、とその筋の人達の間でうわさになっているシャンバラへの入り口はもちろん不明であった。ただ、このマルポリ(紅い山を意味する)一帯がもともと特別な場であるのと同時に、ポタラ紅宮の中央下部にはさらに特別な場があることは感じられた。
いよいよ出発
7月13日、6時30分起床。この日から、いよいよ陸路によるヒマラヤ越えが始まる。トヨタのランドクルーザー6台に、われわれ日本人のメンバーが14人、ネパール人ガイド2人、チベット人ガイド1人、ランドクルーザーのチベット人ドライバーが6人。総勢23人のメンバーである。ランドクルーザーは後部の荷物室まで入れれば1台につき7〜8人乗れるのだが行程が超ハードなので席に余裕を持って車をチャーターしてある。これは企画者のU氏の配慮である。この日の予定はラサからギャンツェへ向かう。途中Kalo-la Pass5010メートルを越える予定である。当初の予定走行時間は8時間だった。ギャンツェはラサの西南約260キロメートルに位置する、ラサ、シガツェについでチベットで3番目の大きな町である。ラサを出発して、先日きたゴンカル空港の方向へ向かう。それから方向を西に向けいくつかの峠越えをする。峠の方向に向い山道に入ったとたんに、進行方向から戻ってくる対向車から情報が入る。道路が先日来の豪雨で完全に不通ということである(後でこのことは嫌というほど思い知らされることとなる。彼らが通れない、という所は本当に、全く、通れないのである。この後、彼らは我々が見て、まったく通れないと思われる、道?とも崖とも、川ともいえないようなところを何10箇所も平気で超えていくこととなる。)。スタート時からいきなりトラブルかと思ったところ、幸いにも道はもう一本あるらしく、迂回して進むことになった。但し、ここはチベット、山道にそれほど都合よく迂回路はないのである。そして、この道がまた大変な道であったのだ。ちなみに、迂回距離は100キロメートルだったそうである。
これが道か?
迂回して峠越えの山道にさしかかる、いきなりの車の渋滞。といっても日本と違い、道はほぼ車幅一杯の泥んこ道、右には聳え立つ切り立った山肌、左には先日来の豪雨で増水した川と、人頭大の石がごろごろしている川原である。そして並んでいる車は殆どは、チベット人の運転する相当年季の入った輸送用トラック、後は我々と同じ形式の4輪駆動車が少々である。することがないので、3キロメートルぐらいの渋滞を車と車の間と、ぬかるみ道をかき分け歩く。渋滞の先頭であると思われる場所にたどり着くと、この川を渡る場所があり、そこかしらが氾濫してあふれている。ふだんから橋があるわけではないのでトラックにはきついかもしれない。しかし、我々の車なら何とかなりそうである・・・などと思っていると、通れるはずがない、と思われた車幅のぬかるみ道のほんのわずかの隙間を見つけ、我々のランドクルーザー隊は、1台、また1台と、トラックを掻き分け先頭に上がってきた。
こうして、この場所は難なく乗り切ったのだが、本当の渋滞の原因は、実はこの先にあった。氾濫した川の先は結構狭い、曲がりくねった上り坂になっており、さらに悪いことには今まで以上にぬかるみが深い。泥は粘土質で深いところは80センチくらいある。ランドクルーザーでも注意が必要だ。(私の以前以前の愛車はこの手の4輪駆動車だった。しかし、こんな道の状況には日本ではお目にかかったことすらない。)ランクル隊はここもまた慎重にクリアーした。この泥沼スタック地帯を登って、カーブしたすぐ上に本当に泥にはまり込んで動けなくなったトラックがいた。(ここまでどうやって上がってきたのだろう)このトラックが渋滞の本当の原因のようであった。ランクル隊はそのトラックと山側とのダート部分を無理やり乗り越えて進む。さらに、しばらく上ると反対側から峠越えをしてきた輸送トラックが変な場所で止まっている。
よく見ると下り坂を降りてきて、カーブを曲がりきれず、前輪は完全に宙に浮いている。後輪は泥でスタックしているので戻ろうとしたのだが、もうどうにもならずそのまま車から降りている。ほんのわずかのバランスで止まっているだけである。我々の車も、とても止まれるような状態ではなく、そのまま通り過ぎる。雨も振ってきて霧が徐々に出てくる。雨が雹に変わってきた頃に、この峠のピークに達した。視界がほとんどない、オポと呼ばれる塚が詰まれ、タルチョ(経文が印刷された祈祷旗)がはためいている。ちょうどタルチョを売りに来たチベット人がいたので5元で購入しタルチョの塚に結び、縁ある人達への神の祝福を祈る。ここの標高は約4700メートルである。峠を降りてくるとヤムドク湖が見えてくる。雨が上がり太陽がさしてきているので、湖の色がまさにターコイズブルーに透けて見える。神秘的でこの世のものとも思えないほど美しい。ヤムドク湖の湖岸の道を進むが、しばらくすると、土石流のため道路が完全にふさがれる。
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ネチュン寺の朝 |
ドライバーはためらいもせずハンドルを左に切り、我々には崖のように見える湖畔の斜面を下って湖畔の泥、石、草、などの入り混じったダートに入る、本日何度目かのサバイバル走行である。ただ、今度は、崖がないだけましだ、と思っていたら。川が氾濫している。当然橋はないので、対岸に渡れそうな所を捜して川沿いに走る。朝と違って水量が多く、ランクルといえども流されそうである。ここなら何とかなる、と思えるところを見つけ川を渡り始める、ふと見ると、対岸からも我々と同じタイプのランクルが渡って来る。丁度その時、そのランクルは深みにはまり、右へ傾く、そして水流の強さがそれを後押しし横転した。目の前でそれを目撃しても我々にはどうしようもなく、それを一瞥して何事もなかったようにそのまま川を渡りきった。その後、しばらく走った後、湖畔のひらけた所を見つけ、宿で作ってくれたランチボックスで昼食となった。気がつけば1:00、朝から殆ど休憩を取っていない。ランチボックスはベジタリアン用と、ノンベジタリアン用があった。私はもちろんベジタリアン用であるが、その中身は、生にんじん2本、生きゅうり1本、ミニトマト2−3個、ゆで卵1個、ゆでジャガイモ1個、食パン、チョコレートパンにレタスを挟んだサンドウィッチ、ザーサイの袋詰め少々など、かなり豪華なものだった。その後もヤムドク湖の周りのダート道をのろのろと走り、やっとのことで本日のメインKaro
la
Pass5010メートルを通る。天候が回復していたせいか、午前中の峠より楽に感じる。ただ、周辺を早く歩くと、さすがに息切れした。その後は休憩らしい休憩も取らないまま、ランクル隊はひたすらヒマラヤ山脈の中を走った。目的地ギャンツェにたどり着いた時、周囲は完全に闇に覆われていた。ホテルの食堂に入ったのは9時45分、ギャンツェの標高は3900メートル、12時間の苦しくも楽しいドライブだったことになる。
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ポタラ宮外観 |
シガッツェ
ギャンツェのホテルを朝10時に出発する。ギャンツェとシガッツェはそれほど距離もなく道路も良いのでこの日は行程的には比較的楽である。ただ、メンバーの一人が昨日のハードな行程のためかかなり重傷の高山病を発病している。この日の行程が比較的楽なのは神の采配とでもいうべきかも知れない。
町を出て40分ぐらい走るとシェルパ族の村があった、時間に余裕があったので見学をお願いしてみようということになった。チベット人ガイドに頼み、街道沿いの比較的お金持ちらしい家に見学をお願いすると、気持ちよく?引き受けてくれた。
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シェルパ族の豪邸
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まず庭に入る、牛と犬がいる、少しばかりの木が牛の糞で作った塀に立てかけてある、家の壁は石積みの間を泥で覆ってある部分と、牛の糞の部分とがある。家の一階には藁が敷いてあり、動物たちのための空間らしい、冬場や夜には動物たちが入るのだろう。他ににわとりも飼っているようである。細い階段を上ると二階が住居となっており、居間に案内される。突然の怪しい団体の訪問にもかかわらず、バター茶を作って出してくれた。バター茶は今回の旅行の中でこの家のものが最も美味しかった。さすがに信仰心の厚いシェルパ族らしく、とても立派なプジャルームをお持ちだった。念のため聞いてみたのだがバスルームはなかった。やはりチベット人である。屋根の上には立派なタルチョがはためいていた(見学有難うございました)。お礼にはみんなが持っていた日本のお菓子を集めて置いてきた。
シガツィエに到着したのは1時半ごろだった。休憩の後、タシルンポ寺を見学する。タシルンポ寺は1447年にゲルク派の開祖ツォンカパの高弟であるゲンドゥン・トゥプ(ダライラマ・1世)によって創建されたものである。歴代のパンチェン・ラマによる政治・宗教の中心として繁栄し、最盛期には約4500人の僧侶がいて、現在でも1000人近くの僧侶が生活し、チベットで最も活発な寺院といわれている。この寺の西端に位置する最も壮大な伽藍である弥勒仏殿には、像高26mの金色の弥勒坐像が安置されている。この坐像の正面の横に少しばかりのスペースがあったので僧侶にお願いして30分ばかりの瞑想を許してもらった。とてもすばらしい場でまさに弥勒菩薩の祝福のおかげだと思われる。ちなみに、その後ヨーロッパ系と思われる観光客が何度も同じことを懇願していたが許可されなかった。この時の瞑想の中で色々解ったことがあり、今回のチベットツアーの中でも大きな収穫の一つになっている。このことに関してはまた別の機会に述べてみたい。
シガッツエからシェーカルへ
昨日のシェルパ族の見学に味を占め、今回はなるべく観光地化していない寺院を見学したいと、同行のチベット人ガイドに相談をする。丁度良い寺がある、と案内されたのはナタン地区にあるナタンゴンパだった。その外壁から判断すると昨日訪れたタルシンポ寺にも匹敵する敷地を持ちながら、その90パーセント以上は破壊されたままである。わずかに残ったものは、本殿部分と、カンドュール(木板にお経を彫ったもの)を大量に保管してある保管庫の建物の一部だけである。我々が到着した時、本殿ではラマ僧たちの読経の最中だった。ここでも我々は、この勤行に参列することを許可され、その後瞑想をする時間を与えられた。この寺はタルシンポ寺とは対照的に観光地化することもなく、また中国当局に協調路線をとっていないため、当局の保護など一切なく、(むしろその逆のことがあるようである)そのため、ここの僧たちは大変貧しい生活をしているようである。我々がこういう形で訪れるのも当局に見つかると本当は問題があるようだ。彼らに感謝と応援の念を送りつつ、みんなでお布施をさせていただいた(がんばれー、ナタンゴンパ!)。
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ヒマラヤ越え 中腹にて(14,600m) |
その後、4500メートルほどの峠にさしかかった。絶景ゆえに、我々以外の車も止まっているほどである、丁度昼時なのでここでランチとする。この頃になると、メンバーの殆どは高山病対策の効果か元気になっており、ランチボックスを持って山の斜面を駆け上がってもそれほど問題はなくなっていた。
少し離れた山頂にはオボ(石の山)が積まれ、タルチョ(旗)がはためいている。少しためらったが、息切れしながら登ってみると、山頂からは、更なる絶景が広がっている。山頂が多分4600mぐらいの標高なのだが。周囲の山は全て5000メートルを越えるため、丁度周囲を全部山に囲まれているようで壮観である。ただ、日本で見る山の風景と異なる点は、殆んど木が生えていない事である。
山頂で座っている時、ふと、脳裏に、五大のことが浮かんできた。五大とは、地、水、火、風、空のことである。五大は全てのものの根源的構成物である、空海はこれに識を加え六大とした。空から地、水、火、風が生まれるということであったが、ここヒマラヤには、まさに空が満ち溢れている。五大のそれぞれは、太極図の陰陽のごとく、それぞれが相補、相関して成り立っていることが一瞬で体感できた。ヒマラヤに感謝。
その後は、いまだかつて体験したことのない、長く雄大なヒマラヤ山脈の山道をランクル隊は走る。日本とあまりにスケールが違うので表現が難しいが、一つの峠を越える図が、あたかも航空写真を見るかのようである。峠の途中でドライバーが指差す方を見ると、はるか谷底に、落ちて時間がそれほど経過していないと思われる、輸送トラックが横たわっていた。
以後はひたすらに走り続ける、あたりが薄暗くなる頃、天候がだんだん怪しくなり気温が下がってくる.まさに山岳の気候である、突然あたりが真っ暗になってきたと思ったら、バラバラと、大きな音を立てて大きな雹が落ちてきた。窓ガラスが割れそうな勢いである。こんなときには、谷間のヤクや、放牧されている牛は、どうするのだろう、と余計な心配をする。そうこうしている間に、この日のホテル西蔵定日珠峰寶館に到着した。ここのホテルは4350メートルにあり、日本で言えばスキー場の山荘に似た佇まいである。すぐ目の前は先ほど降った雹や雪がある。この宿だけはスキー用のダウンジャケットを着用した。また、この晩はガイドの山岳経験豊富なネパール人ガイドが高山病でかなり危険な状態に陥った。ここシェーカルはチョモランマ(エベレスト)のベースキャンプまで観光に行く際の拠点となる村である。
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ヒマラヤ犬と |
シェーカルからザンムへ
この世のものとも思えないような、美しい朝日を窓越しに見ながら起床する。どうせ写らないのを知りながらもカメラを向けずにはいられない。・・・日本人の性か??朝日のクリアーなエネルギーはそれを浴びるもの全てを浄化する、建物、土地、其処に生きている生き物や、人間の肉体や精神をも含めて。
8時45分に山荘を出発する。山道の1本道を少し走ると道の真ん中に検問所がある。なぜかここでパスポートチエック。写真撮影は禁止。こんな何にもないところでどうして?といってもどうしようもない。
車は山道を走り続け、途中Lalun−la Pass5050メートルを通る。ここではもう殆んどみんな元気(例のネパール人ガイドを除いて)で、ただ、風はとても冷たい、それでいてとても心地よい。目の前の山の斜面は雪である、
ニェラムの町からティンリー方面に12kmほど戻ったところにミラレパ寺院がある。雄大なニェラム渓谷に向った谷の斜面にへばりつくようにして建っている小さな寺院である。ここには、ミラレパが瞑想していた洞窟、ミラレパが念力で持ち上げた石などミラレパゆかりのものが沢山ある。ミラレパの洞窟は主がいた頃の波動を現在でもとどめ、力強くも厳粛な気に満ちていた。チベットで最も有名な、聖者、宗教家、詩人である、ミラレパの波動と生き方に関しては大変に学ぶものが多く、別に機会を設けて述べてみたい。
ミラレパ洞窟からほんの少し離れたところに、小高い景色の良い場所があったので今回のツアー最後のランチボックスの時間となった、中身は殆んどいつもと変化がない。たまたま、目の前にチベット人の家がぽつんと建っていた。11歳ぐらいの少女が、我々の怪しいグループに気づいた、両親はどこかに働きの行っているようである。こんな何もないところからどうやって出かけるのだろう?もちろん自家用車など持っているはずもない家である。彼女に我々怪しい一団のランチの残り物をプレゼントすることにした。びっくりした顔をしていたが、恥ずかしそうに、そして最後にうれしそうに微笑んでいた。ゆで卵、りんご、生にんじん、生きゅうり、ザーサイパック詰め、食パン、揚げピーナッツ、茹でジャガイモ、などであるが20人分ぐらいはあったのでかなりの量である。にわとりすら飼えないような地形なので、普段ツァンパとバター茶が主食の彼女たちにとっては相当なご馳走だろう。
この後は、岩山だけで味気なかった街道は、徐々に緑の草木や小木が増えてくる、五大では地と水の勢力が増してくる。一方が、天につながる岩の壁、もう片方が底の見えない渓谷、という街道を、延々とランクル隊は下っていく。異常気象の恩恵のため、この街道のあちこちに滝が出来、水煙がほとばしっている。渓谷にたまたま霧も出てきて、幻想的でとても美しい。ここが日本ならさぞかし有名な景勝地になるだろう。日光の華厳の滝以上のものが多分100以上もあるのだから。
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峠のタルチョ(5,100m) |
その滝は渓谷の反対側だけではなく、当然、我々の通る街道に沿った側にも落ちてきている。しばらく進んだ街道の、急に曲がった場所で、滝が道を完全に越えて道の端まで落ちてきていた。道を越えればその下は全く見えない渓谷である。このあたりでもまだ海抜3000mほどはあるだろう。我々の車のドライバーもさすがに車を止めた。傍で見ると、より水のすごさが良くわかる。路面の状態を確認したあと、ドライバーはサイドブレーキを外しゆっくりと車を進める。多分大丈夫なのだろう・・と思っていると、ハンドルを最も水の壁の厚いほうへ向けるではないか、バタバタ、ドドドーと車がつぶれるかと思うほどの轟音が車の中に響く、ウオー、すげーと我々が叫ぶ暇もなくドライバーは水の壁の中で車を止めた。ええー、故障?と、日本人なら思う状況、ドライバーは涼しい顔をしている。そして、そろそろと、車に水の壁を当てながら滝を潜り抜けた。なんと、彼はヒマラヤ越えで、泥だらけになった愛車の洗車をしていたのである!!!チベット人ドライバー恐るべし。岩でも落ちてきたらどうするんだよー。
そんな、究極的に環境に優しく、命がけの洗車のあとも、ヒマラヤ山脈の中腹を順調に下り、ザンムの町(2300メートル)にたどり着く。
ザンムから再びネパールへ
ザンムは、ネパールとチベットとの国境にある町である。山の斜面に張り付くような形で町が出来ている.ここでの宿ZHANGMU HOTELも町同様斜面に張り付くように建っていて、最上階が入り口になっている宿だった。翌朝8時半から国境越えのため近くの公安局に並ぶ。ヨーロッパ人の一団がいたので、彼らより早く順番を取りたかったからである。幸い我々の順番は2番目であった。この国のお役所仕事が遅いことはわかっていたのだが、待てども、待てども国境越えのチェックが始まらない。結局朝ここに立ってから1時間半ほど待たされて、監察が始まった。チベット人ドライバーと車は、我々とは別に簡単なチエックを受けた後、我々は再びランクルに乗り込み、本当にネパールとの国境に掛かる橋に向う。
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ミラレパ寺院 |
この街道にある、ネパールとチベットの国境は、急な山の斜面に囲まれた、谷底に流れる川を挟み、1本の橋が架けられている。まさに国境に掛かる橋であり、この橋を渡る以外、人間には国境越えをする手段はない。
この橋の手前で車を降り、チベット人ドライバーや、ガイドに最後のお別れをする。最初はどうなるかと思ったツアーも結局ほぼ予定通りに終了しようとしている、本当にありがとー。車から荷物を降ろし、バックパックを背負い、歩いて橋に向かう。中華人民共和国公安に、再びパスポートチエックをされ、さらに橋の上を10メートルくらい歩いたところに線が引いてある。ここがチベットとネパールの国境線である。国境線をまたいで記念撮影をした後、荷物を持ちネパール側へ入国する。ネパールの入国審査の建物は、国境周辺にたむろする怪しい商売の連中と見分けがつかない状態で建っていた。そして川向こうとこちらネパール側では2時間15分の時差があり、かなり違和感がある。
ここからはネパール側に依頼してあった4輪駆動車4台にのりかえる。ランドクルーザーが2台、サファリが2台である。本来はバスの予定だったのだが、例の大雨のため、急遽4輪駆動車を依頼したのである。ここの海抜は1750メートル、ここからは緑の木々も増え気温も徐々に高くなってくる。川幅も次第に広くなる。ただ、道幅や道路状況は、いままでと大差なく相変わらず土砂崩れや道路の冠水はいたるところに見られる。このままカトマンズ(海抜約1100m)に到着し、明日タイ航空で日本に向けて飛び立てば、今回の旅も何とか終了である。 |