| 2001年12月インド修業の旅 |
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暮れも押し迫った平成13年12月12日、診療を平常どおり終了してから8時すぎの新幹線に飛び乗る、過去20何回かインドへ渡ったがこの時期に旅行する事は始めてである。
時は折りしもアフガニスタン問題に世界中が揺れ、成田空港からの第一目的地はデリー、パキスタンに近接するインドの首都である。
インドとパキスタンはアフガニスタン問題など関係なく以前からの筋金入りの不仲である、13日の朝の便で、成田から約9時間半を要し、デリーに着いたのは3時間半の時差のおかげでまだ明るい夕刻だった。
空港の近くのホテルにチエックインし、ふとテレビのニュース番組を見ると国会議事堂を襲撃したテロが起きたと報道されている、16人のテロリストと政府側との銃撃戦があったとの事である。
ちなみにこのホテルから国会議事堂はそれほど離れてはいない。
翌14日は早朝のインディアンエアライン国内線に乗る為ホテル出発は4時である、ここから空港までは約10分程度なのだが、本より搭乗チエックの厳しいインド国内線がこの時期いつもより時間がかかるのを計算に入れ手いる為である。 |
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予想通りの厳しい手荷物検査はデジカメの電池を搭乗中取り上げられるという事を含め1時間程度で終わった。
デリー国内空港から中央インドにあるライプール空港まで約1時間45分である。
ライプール空港に降り立つのは8月以来2度目である、これぐらい何も無い空港はむしろ気持ちがいい。
どこに立っていてもほぼ空港の全てが見渡せる。前回はタクシーが1台もいなかったが、今回は3台いる。
我々の乗る車はドライバーごとチャーターしたオフロード型の車である。前回もこの車と彼に世話になった、と、言うより散々な目にあったのであるが。(その事に関しては私の裏ホームページ,http//www.toyo84.net/hdc/を参照して頂きたい) |
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ちなみに、この車はあくまでオフロード型の車であって、皆さんが日本で想像するような快適な四輪駆動車ではない事を申し添えておく。
2輪駆動車の7人乗りであるが、このスペースにドライバー、インド人の友人でありヒンドゥー語を英語に翻訳してくれ、さらにジャイナ教の高僧との修業の橋渡しをしてくれているビリンダ氏、それに私を含め日本人の修業組みが4名、もう1人は友人の船川氏である。
船川氏は恐らくインドに私の3〜4倍来ている筈であるが、修業は嫌いだと言いつつ、我々のサポートをする為だけにこの旅に参加してくれている。船川氏に感謝。
ともあれこの車の後部荷物席に乗っていた者は、それだけで1週間で約5キロの減量になったそうである。
こんな状況なので我々の手荷物を車の中に入れておく余裕は無く、バッグなど大きな荷物は屋根の上に載せることとなる。
尤もこれはインドでは普通の事なのでどうということは無いのだが、後になってこの事が大きな交通渋滞を引き起こす原因となった。 |
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インドの鉄道は日本のJRとは比べ物にならない。
もともと時間の概念が無いのでは、とも思える国民性の上に、列車や機関車にもその意思が乗り移っているのではないかとも思える運行状況である。
従って主要道路の踏み切りは列車の来る頃の時間になると遮断機が下ろされる、そしてその時間に来るはずの列車が通り過ぎるまでは、そのままで待つのである。
さらに通常のインド人の運転習癖として、あたかもそれが義務であるかのごとく前方の追い越せる車はとにかく追い越すのである。
そしてその習性は踏み切り待ちの間でも変わる事は無い。
従って踏み切りが30分や40分上がらないことはごく普通の事なので待っている状態で既にパニック状態である。
この状態で踏み切りが上がったときはさらに混沌となるのであるが、我々の車がその混沌に更なる追い討ちをかけてしまったのである。
ある町はずれの列車踏み切りでしばらく遮断機があがらなかった上にそこを渡りきったところに高さ制限の為なのか恐らくあまり意味の無いガードバーがあった。
そしてそのガードバーが左側即ち我々の進行する部分が傾いていたのである。普通なら気づいていたかもしれないのだが長い間待たされていた為ドライバーはそのまま直進した。
その結果車の天井に積んだ荷物がガードバーに噛みこんでしまったのである。
ドライバーはあまり動揺した様子も無く、車の屋根に登り悠々と荷物を縛ったロープを解き始めた。
後続の車は当然前に進む事が出来ず、けたたましくクラクションを鳴らす。 |
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我々の目指す村はローカル空港のあるライプールから約300キロ離れたサンバリプールというところである。
インドには珍しく森のある木の多い村だった。
ホテルはこの村には無いそうなので、ビリンダ氏がコテージ風の建物の二部屋を交渉してきた。
まだ部屋が不足なのでもう一度探してくるといって出て行く。
12月とはいえさすがにインド、部屋の外でくつろいでいると大きなやぶ蚊が羽音を立てながら何匹も飛んでいる。
部屋の中には蚊帳も置いてある、ただ、ここは本当に人が住んでいるのか?という感じがする部屋である。
トイレ、シャワー、ベッドがあるので修業には十分であるが。
ただひとつの誤算は夜だった、ブランケットは一枚しかなかったのだが、ここはインドだとたかをくくっていたのだが、夜は思いの他冷え込み(多分5〜6度)
日本で着ていた冬服を着て寝る羽目となった。 |
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翌日からはジャイナ教の高僧Mグルから直接の教えを受けるのである。その内容とグルの本名に関してはグルとビリンダ氏との約束により現在のところ秘密である。今回の行が成就した後ではその一部は公開してよいとの事である。
つけ加えておくがジャイナ教のグルは一切の私的財産をもたず、移動などの交通手段は全て徒歩である。自分の決まった寺院などは持たないため住所なども持たない。生涯女性に触れる事は無い。食事は厳密なべジタリアンでありその中にもさらに制限がある。
例えば根菜類は食べないし、托鉢によって得る食事もグルの為に用意されたものであってはならない。さらに、日没以降日の出までは食べ物はもちろん水も取らない。
非常に厳格な規律にくわえ幼い頃から出家し修行の道に入る。
霊的、精神的、肉体的、学問的、いずれをとっても驚愕に値する。
インドにはヴェーダという太古からの教義がある。最近少しはその名が知られてきたアーユルヴェーダはそのほんの一部分である医学部門である。
私が用いるヒーリングや東洋医学的療法の多くもそのルーツの多くはここにある。突然何かの力を授かって病気を治せるようになったとか、はたまたその力が突然なくなったとか、もしくはその力を使っているうちにだんだん変になってきたとか、よく聞く話である。
様は、そうなるにはそうなる訳があるのである。
肉体的な力を使おうと思えば、肉体的なトレーニングが必要である。精神的即ちサイキックな力を使おうと思えばその部分の力を安定して出せるトレーニングとその力の使用法を確立しておかなければならない。
霊的な力を発揮しようと思えば自分がそれに値するところに達していなければならない。
今回の修業の最後に、お世話になった事に関して我々は何かお礼がしたいのですが、と申し出た。Mグルは、今のおまえたちが今回のような事を学び行う事が義務であるように、おまえたちに今回のような事を教えたり与えたりする事は私の義務なのです。したがって何のお礼もいらないのです。と答えられた。
どんな学問や修業でもそうであるが上に上るほど優れた指導者から与えられる恩恵は計り知れない。自分ひとりでも出来ない事は無いかもしれないが何十年かかるかも解らない。
それを何ヶ月かで可能にしてくれるのは優れたグルである。そしてそういったグルにめぐり合う機会は非常に少ない。また、神はその準備が出来た修行者の元に師を送られる、とも言う。
Mグルに感謝。 |
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グルは我々が尋ねた時期にこの辺りの村村を回って説法をしていた。隣村と言っても約30キロから40キロ離れている。
当然グルは歩いて移動するのだが、歩くのはジャイナ教の掟で日中に限られる。
サンバリプール村からダリラジャハラ村への移動の日我々は早朝グルの一行を村外れまで見送った。
我々は車での移動なので、ゆっくり村を出発すればよい、道は一本しかないので途中でグルを追い越しては失礼だろうと言う配慮だった。
朝食を兼ねた昼食を自称百貨店経営の村の有力者宅でご馳走になり、ゆっくり村を出たつもりであったのだが大きな誤算があった。
この時グルは腰を痛めていて早く歩けなかったのである。
運が良かったのか悪かったのか隣村への半ばで追いついてしまったのである。
こうなってはそのまま追い越すわけにはいかず、午後の最も暑い中インドの田舎道をグルの一行と歩く事となってしまった。突然の出来事であったので、サンダル履き、帽子も無く35度以上はあろうかという炎天下のもと、この後2時間以上突然の修業をさせてもらった。インドは冬でもやっぱり暑かった。 |
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移動後は、村に1軒だけのホテルは満員だったのでダリラジャハラ村のジャイナ教信者の自宅にお世話になる事になる。
銀製品や装飾品を扱っているショップをこの村の一番の大通りに開いている。隣り合った店をファミリーで開いている他にも何かしているようだがヒンドゥー語は良くわからない。
とにかくこの村ではトップクラスの名士でありお金持ちなのだろう。
実は前回もこの家に厄介になっているのだが、ビリンダ氏から事前に何の説明も無く、成り行きの展開なのでここに再び来るとは思っていなかったのである。
この村の人たちには我々一行は言葉に表せないほど歓待を受けた。特記したいのは食事の事である。
毎回の朝昼夜の食事はすべてこの村のどこかの家でごちそうになった。それも毎度毎度わんこそば状態である。器に盛られた料理をやっとの思いで平らげて油断していると、うまかったか、ではもっとどうだと言われる。
1回目はまだうれしい、2回目は少し重くなる、3回目はもう結構だと控えめに言う、それ以上になるともうガネーシャの腹だから(ガネーシャとはヒンドゥー教の象の姿で大きなおなかをした有名な神様である)勘弁してくれと頼む。
それでも料理を入れられてしまうので最後はチャパテイやカレーを全部食べずに、次に料理を盛り足す場所がないようにに器に広げておく事を覚えた。この状態ならさすがに彼らも諦めてくれたのであった。
この村では我々の事は、はるか遠くの日本という国から来た高僧であるという事になっていたらしい。この田舎の仕来たりとしてそういった者を歓待する事は当然の義務であると同時に大変な名誉でもあったようである。
そういえばなぜか前回も今回も我々は村人とグルの前で表彰を受けたのであった。その時の呼び方は、スリ・タダシ・ハットリ・ジ、そう呼ばれるのが恥ずかしいほどの最高の敬称であった。 |
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気遣いと言う点では我々のお世話になった家の若旦那には特筆すべき物がある。
若旦那とは我々が彼につけた愛称である。本名はもちろんあるのだが忘れた。とにかく彼はインド人随一ではないかと思われる世話好きであり、我々が部屋でくつろいでいるときも直ぐにやってきて、チャイはいらないか、ではミネラルウオーターはどうだとか、いつも世話を焼きに来る。
我々がこの家に来た最初の日まずチャイとナッツが出た、ゆっくり飲んでいるとドライフルーツやビスケットやおつまみやらが出てきた。
これもありがたく頂いた、しばらくすると食パンとジャムとマーマレードさらに自家製のマンゴーのからし漬けが出てきた。
丁度昼時だったので美味しく頂いた。
このからし漬けが大変パンに合って美味しかったのでそのように言うと、では,ということでまた山ほど出てきた。
食べ終わるのを待っていたかのように若旦那のいった言葉が彼をよく現している。
「では,ランチの準備が出来ているので別室に行きましょう。」
ええー、うそだろー。
そして本物のランチは例のわんこそば状態である。
その後我々はなるべく部屋の内鍵をかけるようになった。
もちろん若旦那の突然の襲来を防ぐ為である。 |
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修業とはインドの奥地で聖者と共に秘密の行を行うことだけではない。むしろ、日本で行っている日々の診療や生活のなかにこそ瞑想やタントラの極意があるのだと思う。
そうは言っても読者はそれでは満足しないだろう。何しろ私の書いたものを読んでくれる人はみんな変わった人が多いからである。
よく行う行のひとつにマントラがある。日本では真言と言う。
インドやネパールへ行くようになって私が聖者やいろいろな人から教えられたマントラは恐らく300や400にはなると思う。
マントラのなかで主要なものを挙げればヒンドゥーではガヤトリーマントラであり、ジャイナではナモカールマントラである。
マントラの効用はまず唱えて見なければ理解する事は出来ない。
基本は正しいマントラを正しい発音で正しい目的に使う事である。
ただしマントラは使う前に仕込みが必要である。
仕込みはそのマントラに応じた条件で自分の肉体,心,魂をマントラに晒す,例えば夜12時から108回41日間一定の場所で,という具合である。慣れればこの程度の条件は楽な部類に属する。
マントラには大抵キイ(種子とも呼ばれる)の部分がありバイブレーションの伝達の作用としてはこの部分の働きが一番大きい。
あるときマントラを唱えていたら、この種子マントラの部分がどんどん響きだした,その響きと言うかバイブレーションはどんどん広がり,私の体、辺りの空間、物、壁など全てを捲き込んでその響きは広がり続ける。そしてこの中に浸かっているととても気持ちがよい。
ふと思った、空海が言った谷響きを惜しまず、と言うのはこんな状況ではなかったのかと。
また、明けの明星が口の中に飛び込んで来た体験は無いが、瞑想の中、マントラの詠唱中、特殊な場の設定中、など様様な機会に光に囲まれる事はある。
光の状態も色々あり白光であったり、青い光であったり、その光の強さも様様である。多分、その場の状況とその時点での私のバイブレーションのレベルなどが関係するのだろう。 |
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修業の最後の日、グルは深夜と言うより早朝まで我々に付き合ってくれた。
どんなに喉が渇いても水すら飲むことが出来ないのに。
そして、勤行のため朝は朝で忙しいのであろうのに。
ただ、そのため我々はライプールエアポートからデリーへの早朝の便に乗るために3時ごろ出発をしなければならなかった。
この時も例の若旦那は付き合ってくれて、チャイを入れてくれたり、旅の無事を祈る儀式をしてくれたりした。
この時はさすがに若旦那に感謝。 |
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デリーから成田への国際便は翌日だったのでこの日はデリーのホテルに一泊する。
13日にテロのあった国会議事堂に近い新しいホテルである。
久しぶりに文明社会に戻ったような気がする。
街中はテロの事など関係ないかのごとく、インド風に雑然としている。
翌日、即ち帰国の日であるが、フライトは夕方の為まずアーユルベーダ薬の問屋に行く。ほんの5‐6坪の店なのに裏にはかなり広い倉庫があるようである。
怪しいインド人の親父とその助手らしい若い男が2人いる。
狭い店なのだがありとあらゆる薬が置いてある。
女性の好きそうなやせる薬、やせるお茶、心の安定の為の薬、飲む目薬、バイアグラが男性用女性用それぞれ、前記に類する薬多種、毛はえ薬、頭のよくなる薬、・・・。あえて怪しいものを挙げたがアーユルベーダの薬は決して西洋薬に劣る事は無い。
使い方と目的さえきちんと理解していれば効き方もおだやかで副作用も少ない。
そして何より種類が多い。我々が探していたものはバスマという宝石や金属を基にして作る薬である。残念ながらこの店には無かった。
特記すべきはこんな店でもインターネットを通じて国際販売をしている事である。
インドはこの部門に関しては日本より進んでいると思う。
昨年ジャイサルメールと言う砂漠の中の町を訪れたときとんでもない田舎であるにもかかわらずインターネットカフェがあった。
インド、侮れず。
ただ、この店と親父の顔を見た日本人は多分何も買わないだろう。
もう一軒、我々が立ち寄ったのはアーバンスクゥエアに近い香料の専門店である。
ここは8月以来に一度立ち寄っている、約10坪ぐらいの店に店主の親父が威張って座っている。
周りに5‐6人の年齢の違うインド人の使用人がいる。
それぞれ役割が違うようである。
フラワーのエッセンシャルオイルの原液を計るのは一番ベテランのインド人の役割のようだ。たぶんエッセンシャルオイルが大変高価だからだろう。
ここではインドでは珍しく、フラワーのオイル、香水の原液、インセンス、などのかなり質のよい物を売っている。
ヒーリングにも利用できる為インセンスとフラワーエッセンスを少し買った。
この後ホテルに戻り少し休憩をしたのちデリー国際空港に向かった。
空港に着いて驚いた事には、国際空港の入口の何箇所かに土嚢を積みバリケードをつくりその中にはアーミーがマシンガンを持って待機している。
東洋系の顔立ちをしているものも何人かいるので彼らは恐らくネパール辺りからの傭兵であろう。傭兵がいると言う事はここは最前線であるという事である。 |
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インドに来ていつも一度は思う事がある。
【インドなんかもう二度と来ねーぞ】と言いながら、またインドに呼び出されてしまう私である。 |